双子の子育てと両親の遠距離介護と仕事 その先にあるもの

岡田和子
ケアマネジャーを紡ぐ会 おおさか支部長(産業ケアマネ・主任介護支援専門員・社会福祉士・ヨガRYT200・CWT200 等

ヨガール☆ケアマネジャー

毎朝ヨガをするケアマネジャーです(^^)

実はヨガの資格も持っています(笑)


ケアマネジャーを紡ぐ会おおさか支部長の岡田和子です。
仕事と介護の両立の大切さを届けたい産業ケアマネです。

日々では、ケアマネジャーとして、高齢者の方、ご家族の方の支援をしています。
介護の仕事は19年になります。現在、居宅ケアマネジャーをしております。

20歳で「福祉の世界で生きる」と決意し、社会福祉を学ぶため大学へ。結婚と双子の出産を経て、子育てしながら福祉の仕事を続けてきました。障がい施設での勤務、子どもの暴力防止活動(CAP)に5年従事し、各小学校、中学校、幼稚園等で啓発活動を行っていました。子どもが小さい間はホームヘルパーを経験。社会福祉士の資格を取得後は支援相談員、ケアマネジャーとして多様な経験を積んできました。

ケアマネジャーを紡ぐ会との出会いは、FAXで届いた無料研修でした。
14年勤めた介護老人保健施設では、支援相談員をしたのち、施設ケアマネジャーとして、多職種間の連携やQC(業務改善)活動に努め、外部との関係性も深めてきました。ある日、FAXで届いた研修案内を契機に「ケアマネジャーを紡ぐ会」と出会い、コロナ禍での厳しい環境の中でもケアマネジャーを紡ぐ会の研修での交流に新たな希望を見出したのを思い出します。
ZOOM研修に、毎回きらきらとした笑顔で司会をする現会長の進さん。
「なんだか、画面の向こうは楽しそう」そのように映りましたね(笑)。

30歳のとき、子どもたち(5歳)を連れて福岡に帰省していて、大阪へ戻る日。父が脳梗塞に…。ある日突然、介護が始まりました。仕事をしながら、双子の子育てと福岡に住む両親の遠距離介護の日々が8年間、毎日が高速でまわる奮闘記でした。

親からすると、子どもたちに役割分担をしているところってあるんですよね。当時、関東在住の姉は会社経営が多忙で、両親へ金銭面で少しばかり支援してくれていました。私はそのような余力があるわけもなく、介護の仕事をしていることから、「介護を頼られる人」でした。2か月に1回、多い時で1~2週間に1回帰省して支援。金銭管理や医師の説明があるときに同席、入退院の手続き、キーパーソンと言われる、介護サービスの方たちの家族の窓口的役割等を担っていました。

そこで実感したのが、「まわりを頼る勇気」です。

介護の仕事をしているとはいえ、当時何からどう手をつけたらいいかわからないながらも、ヘルパーさんが入るようになり、大方の生活の流れができてきました。
父の介護に続き、母の闘病生活が始まった時は、これはもうムリだ…と思いました。二人とも介護が必要。傍から見れば、「いっしょに住んで、両親の介護をしなくていいの?」と思われるかもしれません。私自身も、さすがに母が闘病生活になったときは、仕事を辞めて帰省して介護をしようと考えました。しかし、大阪にある家庭、子どもたちの生活、私が働かないと子どもたちを大学なんて行かせられない…。自分の感情だけでは動けないことが辛かったですね。

悩み、いろいろ考え、叔父夫婦(母の弟夫婦)に「母の受診の送迎だけでも手伝ってくれないか」とお願いをしにいきました。叔父夫婦も祖母の在宅介護をしていましたが、引き受けてくれて、なんとか歯車が回りだしたのを思い出します。あの時を思い出すと、感謝しかないです。

父も母も介護が必要な状況の二人暮らしは、リスクだらけ。そのとき思ったんです。「リスクを許容しないと、遠距離介護はできない」と。父にしても母にしても残りの人生を、まわりの人たちにポイントごとに助けてもらいながら、自分たちの今できる範囲でやっていく。ここに「望む暮らし」があるのではないかと…(というか、言い聞かせていた自分がいたのかもしれません)。

私の失敗談なのですが、母が手術で入院することになり、「父が一人家にいると、家が火事になる」と過大な心配をする母。やむを得ず、父に大阪へ3か月来てもらうことにしました。私の友人からすると、「あのおいちゃんがよく大阪に行ったね」と、後々の笑い話なんですけど。

父と私はまず、気が合いません。その中での同居。夫も息子たちもうまくかかわってくれていました。私も仕事の休憩中に家に帰ってきてごはんの支度をして、また仕事へ。病院にも行けるよう手配して、入浴介助は私がして…。

しかし、父にとっては窮屈だったんでしょうね。ある日「ここは牢屋か!」突然怒鳴るわけです。唖然としつつ、私も怒り沸騰。3か月の予定が3週間で、その日のうちに父は福岡へ帰ってしまいました。母に謝りましたね…。姉は、父らしい行動に笑ってくれていましたね(苦笑)。ちょっと救われました。

福岡にいる頃はヘルパーさんとうまくいっていなかったのですが、大阪での少しの生活のおかげもあってか(二度と行きたくないと思ったのでしょうね)、父も合わせることができるようになったんじゃないかと思います(苦笑)。

今でも、ご利用者、ご家族とかかわるいろんな場面で、家族の立場の気持ちがよみがえってきます。親の介護をしていなかったときとした後では、ご家族とのかかわりに変化がでてきました。かける言葉ひとつひとつが大切だということ。出すぎず、そっと声掛けをする。家族は、距離感が近かろうが遠かろうが、親に対するそれぞれの思いがあります。そこに寄り添えるから、私たちは専門職といえるのだと思います。

両親の遠距離介護から10年後、産業ケアマネとの出会いが訪れました。
「私が経験してきたことを伝えることで、少しでも気持ちが楽になり、介護離職をせず仕事を続けながら介護をしていく人が増えれば…」。

2023年に産業ケアマネ3級、2024年に2級を取得。産業ケアマネ仕事と介護の両立支援コンサルタント養成講座1期を受講。
名古屋で開催された介護離職フォーラムに参加。画面越しにしか見たことがなかったケアマネジャーを紡ぐ会の幹部の方々とリアルにお会いして、底知れぬパワーを感じたのを思い出します。まさか、仲間入りするとは…(笑)。

仕事と介護の両立支援をしていくことを国をあげて求めています。
キャリアをあきらめることにより、その後の再構築は容易にはいかないものです。
さらに、自分で背負いこみ、介護を頑張りすぎて親子の距離感が近すぎると、怒らなくていいところで怒ったり、優しい言葉かけもできなくなってしまいます。
望まない介護離職とならないよう、仕事を続けながら可能な範囲の介護をしていき、あなたの人生も大切にしてほしい、そう願っています。介護の形はいろいろありますからね。

今の私は、「介護をする家族を支える家族」です。
家で個別面談したかと思うと、揺れ動く感情に翻弄されることも…(苦笑)。

まだまだ語りたいことがありますが、このあたりで終わりたいと思います。
引き続き、よろしくお願いいたします。