父の看取りを経験

居宅介護支援事業所 のひケアセンター 所長
岐阜県介護福祉士会理事
岐阜県白川町議会議員
梅田みつよ

介護の本質とは

父を看取る

今年の4月、父を看取りました。最期の瞬間は私の腕の中でした。上半身を抱きかかえた状態で、父は息を引き取りました。

私は、医療や介護に携わり、おそらく200人以上の方の死にゆく「看取り」に立ち会わせていただきました。その中で、看取りの奥深さ、素晴らしさ、尊さ、無情さ、など多くの事例から学ばせていただきました。看取りや死の価値観とは、人の顔が違うように、多種多様に存在します。非常に辛い立会いもあれば、なんとも感動的な立会いもありました。今思えば、誰しもが経験できない立場に置かれていました。なぜならば、その命の尽きる判断と選択を、充分な話し合いや心身の状態の観察によって、ご家族や関係者等に伝える役目を負っていたからです。命の重さを背負う……。命の重さをどのように考えるかは、人それぞれでしょう。私が娘の死を通して心臓に太いくさびが突き刺さる思いであったように、その重みは年齢や性別や人間であることを超えて、愛ペットなどに及ぶものであろうと考えます。

つまり、当事者の方々の心に、最期をどう素晴らしく尊いものにできるのかは、私たち専門職にかかっているのではと思っています。しかし心を尽くしても願わぬ最期を迎える場合もありますから、完璧な正解はありません。

 よく、身内の介護はしない方がいい、という話があります。私もその通りだと思っていました。父の介護をする時には、数日唸りながらどうするべきかを悩み、悩み抜きました。出た結論は、「思いっきり父の介護がしたい」と思いました。父の病状は決して良くなかったのですが、病院から連れて帰り、どう介護を頑張ろうかとワクワクすることにしました。これまで私の選んだ仕事は、これなんだと自信を持って、長年の経験と、看取りの経験と、介護技術と、連携と、ケアマネのマネジメントを思いっきり発揮して、最高のスキルを発揮しようと思ったわけです。

わかってはいたけれど、在宅でみる以上は、どこかで全部やれないんだと諦めることが必要でした。一番の悩みは、寝ている間に息を引き取ったらどうしよう、この考えをどうするかでした。

悩みに悩んで決めました。家族全員に対して言いました。

「もしも、私たちが寝ている間に息を引き取ったら、可哀想と思うよね。確かに辛いよね。てもね、これはとても自然なことなの。生物は一度生まれたら一度死なないといけない。これはみーんな同じなんだよ。父は私たちが寝てる間に静かに息を引き取ったとしたら、どう思うと思う? ひどいと思うと思う? 不眠不休の介護を望んでいると思うかな。」

みんな泣きながら首を横に振る。

「うん。そうだよね。自分なら、寝ていいよ、って思うよね。みんなが安心して寝ててくれたら、嬉しいんじゃないかな。たまたま息を引き取ってしまうかもしれないけれど、生きてきたことや私たちの思いに変わりはないよね。」

みんな首を大きく縦に振る。

「それとも、病院に入院してもらう?」

みんな首を思いっきり横に振る。

「よっし!寝よう!」と。

それぞれ泣きながら寝床へ。

今回は、ずっと介護がしたい思いと、ケアマネジメント、私の中で両方が戦いましたが、結果、ケアマネジメントが勝ちました。

介護の本質とは、まさに人の生きるを支え、死を支えることにあり、と思います。

ケアマネジャーとして、父の看取りを経て、ケアマネジメントの発揮するべき時とタイミングを逃さぬようにしたいと深く感じました。

私たちの役割は尊いです。いつもお伝えすることですが、皆さまの事業所の環境つくり、人づくりも大事にしてください。そしてたくさん素晴らしい経験をしてください。

読んでいただきありがとうございました。それでは、また。